コラム漢字質問箱福音書:「人を裁くな」「姦通の女」 


人間(『仏の世界と輪廻の世界』ひろさちやより)

【一】 人間とは何か−。 そう考えるとき、わたしが最初に思い浮かべるのは、『新約聖書』「ローマ人への手紙」 の一節と、そして『歎異抄』のなかの親鸞聖人のことばである。はじめに、聖書から引用 しておこう。
わたしは自分のしている事が、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、 かえって自分の憎む事をしているからである。・・・・・わたしの内に、すなわち、わたしの 肉の内には、善なるものが宿っていない事を、わたしは知っている。なぜなら、善をしよ うとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲 している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(第7章15−19)

周知のごとく、この「ローマ人への手紙」の作者は、初期キリスト教会の最も優れた宣教 者といわれるパウロである。けれども、パウロは、最初からのキリスト教徒ではなかった。 いや、彼ははじめキリスト教の迫害者であったのだ。迫害のためダマスカスに向かう途中、 彼はその耳でイエス・キリストの声を聞き、一転して迫害者から宣教者に転じる。したが って、聖書のうちで語られているパウロの悲痛なことばは、そのような彼の奇蹟の体験か ら迸り出たものなのである。 善を意欲しつつ、しかもなおかつ悪をなしてしまう人間。この弱き性なる人間−。パウロ は、そのような人間の弱さを自覚し、そして神によってしか救われない自己を発見したの であった。 そして、仏教において親鸞聖人が、これと同じことばを語っておられる。読者もご存じで あろう、弟子の唯円房を相手にしての問答である。 「唯円房よ、あなたはわたしのことばを信じられるか?」 親鸞聖人は、あるとき変なことを言い出された。唯円房の返答が肯定であったことはもち ろんである。 「では、往生のために、千人を殺してごらん。そうすれば往生はまちがいないのだから・・・・・」 「と申されましても、一人をすら殺すこともできそうにありません」 「じゃあ、なぜ、わたしのことばを信じるといったのかね!?」 師は弟子をきびしく追いつめる。その上で次のように結論している。ここのところは、原 文のまま引用しておこう。
・・・・・これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千 人ころせといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なき によりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふと も、百人千人をころすこともあるべし・・・・・。(『歎異抄』第十三条)

人を殺すということは、考えてみれば最大の悪事ともいうべきものである。けれども、わ れわれがそうした悪事をなさずにいられるのは、なにもわれわれが善人だからではない。 ただ、幸いに人を殺さずにすむ恵まれた環境に置いてもらっただけのことであって、時と 場合によってはこのわたしが殺人者にならぬともかぎらぬ。反対に、不幸にして罪を犯せ る人間も、彼は宿業の故にそうなったのである。親鸞聖人はそのように語られたのであっ た。 宿業−それは恐ろしいことばである。受け取り方いかんによっては、親鸞聖人の、そして 仏教の思想を完全に誤解する結果となるであろう。にもかかわらず、親鸞聖人は、そして 仏教は、あえて「宿業」の語でもって語ろうとするのである。なぜなら、われわれ人間の もっている傲慢さを戒めるためには、この語を措いてほかにないからである。 【二】 もう一度、聖書に戻りたい。『旧約聖書』「詩篇」には、次のような句がある。
しかし彼らはいと高き神を試み、これにそむいて、 そのもろもろのあかしを守らず、 そむき去って、先祖たちのように真実を失い、 狂った弓のようにねじれた。(第78篇56−57)

ここで人間は、端的に「狂った弓」と表現されているのである。 キリスト教神学者の北森嘉蔵氏によれば、聖書において「罪」を意味することばは、ギリ シア語の「ハマルティア」が使われていたという。そして「ハマルティア」とは「的をは ずす」という意であった。(『聖書の読み方』1971年) 弓に矢を番えて的を射る。けれども、最初のうちはなかなか的に当たらぬであろう。的を はずすたびに、われわれは罪を犯しているわけである。だから、われわれは練習に励む。 不断の努力によって、矢が的をはずすことのないように技術を学ぶ。そしてやがては、わ れわれは正確に的を射抜くようになるであろう・・・・・。 だが、果たしてそうであろうか? なるほど弓そのものが正常であれば、練習により、技術の習得によって的に矢を当てるこ とができるかもしれない。けれども、人間は「狂った弓」なのだ。狂える弓によって、ど うして的を射抜くことができるだろうか。聖書は絶望を語っているのである。 狂える弓−ここに、わたしは、宗教と道徳の差があると思う。 弓そのものは正常である、とするのは道徳の立場である。未熟な者は的をはずして罪を犯 すかもしれぬが、熟練した人間は的をはずすことはない。未熟な者は、それ故に責めをう け、二度と的をはずすことのないように命じられる。努力いかんによっては、彼は的に矢 を当てられるのであるから、そうした努力を怠ったところに彼の責任がある。そう考える のが道徳の立場である。 けれども、いかに努力しようとも、もし弓そのものに狂いがあれば、そのとき矢は絶対に 的を射抜くことができぬ。あるいは、的のところまで矢は飛ばぬであろう。そして人間は、 狂った弓である人間は、的をはずして罪を犯すのである。その努力のいかんにかかわらず、 必然的に罪を犯さざるを得ない人間の姿がそこにある。それがキリスト教の「原罪」の考 え方であり、道徳の立場とは根底的にちがった宗教の立場なのである。 【三】 仏教もまた「狂える弓」の考え方に立つ。わたしはそう思っている。仏教とキリスト教は、 その表面的な多くのちがいにもかかわらず、基本的な人間観においては一致しているので はないか。わたしには、そう思えてならないのである。 かつて、わたしはこんなことを書いた。奇蹟というものは、かならずしも鬼面人を驚かす 底のものである必要はない。いたって平凡そのもの−といった奇蹟だってあるはずだ、と。 そしてそのとき、わたしはマホメットの奇蹟を語っておいた。 ある時、マホメットが、山を動かして見せると公言した。そこで人々が、その奇蹟を見る べく集まり来た。期待する群衆の前で、マホメットは大声で山に向かって叫ぶ。「おーい、 山よ。こっちへ来い!」 しかし山は動かない。 三度、彼は山に向かって呼びかけた。三度とも山は動かぬ。そのとき、マホメットは群衆 に向かって言う。 「ご覧の通り、山は動かぬ。では、わたしが歩いて行こう」 それが奇蹟であった。いたって平凡そのものな奇蹟である−。そう思ってわたしはこの話 を紹介したあとで、こんな風にも言ったのであった。わたしたちは、普段憎み嫌っている 相手に対して、その相手を動かすことばかりを考えているのではないか。自分は動かずに いて、相手が折れてくる奇蹟ばかりを期待している。しかし、そんな奇蹟は起こらぬ。だ とすれば、こちらから折れて出るのもよいではないか。それだって、いたって平凡そのも のではあるが、一つの立派な奇蹟である、と。 その考えは今でも変わらない。 が、最近では、それだけの説明では、いささか舌足らず(ママ)で誤解を招いたのではないか と反省している。というのは、憎み嫌う相手にこちらから接近して行くことだって、なか なかできることではないからである。 山を動かす奇蹟が困難なことは、だれにだってわかる。では、自分のほうから山に向かっ て歩くことはどうか・・・・・。それくらいのことはだれにだってできることだと、ついわれ われは錯覚してしまうのである。けれども、そう、まさにけれども、われわれにはそれだ ってできないのである。それができるくらいなら、はじめから相手を憎むことはなかった はずだ。別段、二人が対立することもなかったであろう。 そう考えるとき、山に向かって歩いたマホメットの行為が、まさに奇蹟以外のなにもので もないことがわかるのである。そして、それが奇蹟であるかぎり、マホメットなればこそ できたのであり、われわれ凡人にはそんな奇蹟はとてもやってのけられないことが納得で きるのである。 つまり、こういうことである。 怨み憎む者に向かってこちらから積極的に歩いて行け、と命じるのは道徳の立場である。 道徳の立場では、弓そのものに狂いはないのだから、われわれの努力いかんによってそれ ができるのである。したがて山に向かって歩くのはだれでもできる茶飯事であって、奇蹟 にならないのである。マホメットが歩きはじめたとき、群衆は「馬鹿々々しい」との感想 を抱いたであろうが、それは彼らが道徳の立場に立ったからである。 仏教はそうではない。仏教においては、「怨憎会苦」をいう。怨み憎む者に会うことは苦 である−。はっきりとそう断言するのである。そしてこの場合の苦とは、人間の根源的な あり方での苦であって、なにか別に楽しいことでもあれば簡単に忘れてしまえる底のもの ではない。いってみれば、弓そのものが狂っているのである。もはやどうしようもない絶 望の状態が苦である。 だから、怨み憎む者に向かってこちらから積極的に近づくことなど思いもよらぬ。そんな ことは、絶対に不可能なのだ。不可能であるからこそ、それは奇蹟であるわけだ。 【四】 いったい何を言いたいのだ!?では、仏教においては、人を憎めと教えているのか・・・。 おそらく読者は、先程から、そうしたことばを吐きたくなっておられると思う。たしかに、 このようなわたしの論法は読者の反感を買うであろう。けれども、それを承知の上で、な おかつわたしは声を大にして叫びたいのである。仏教は道徳ではない、と。 仏教は、人を憎めと教えるのか!?読者はそう言われるかもしれぬ。だが、憎めと言われ て、簡単に人を憎めるものでもないのである。愛せと言われて、また簡単に人を愛せるも のでもない。憎むも愛するも、それはどうしようもないことなのだ。われわれは正常な弓 で矢を射ているのではない。弓が正常なら、的に当てるもはずすも思いのままである。け れども、弓そのものが狂っていては、どうにもならないのである。 その、思いのままにならないこと。 狂える弓のごとき、どうしようもない人間の絶望。 あるいは、親鸞聖人のことばで言えば、「宿業のもよほすゆへ」に善をなし、そしてまた 悪をなしてしまう人間。 仏教の出発点はそこにあり、そこから仏教がはじまるのである。読者よ、わたしはそのこ とを言いたかったのである。一日一善。お父さん、お母さんを大切に。それができるので あれば、仏教はいらない。 だから、仏教において一番大事なことは、みずからの善を誇ってはならないこと、そして 自らの悪に対してはこれを懺悔し、他者の悪はこれを裁いてはならぬことである。そこに 仏教的人間の生き方があるのである。 われわれはしばしば自己を善人であると思い込み、そして他者の悪を糾弾するのである。 けれども、いまは恵まれた環境にある自分ではあっても、もし彼と同じ立場に置かれたな ら、彼と同じ悪をなさなかったであろうか。顧みて忸怩たるものがあるはずだ。にもかか わらず、それでもなおかつ自分は善人であると自惚れ、絶対に自分は悪をしないと豪語す る者がいる。そうだとすれば、彼は、人間が狂える弓であることを知らないのである。そ の人は、道徳の人であって宗教の人ではない。ましてや仏教の人ではありえない。 われも彼も、狂える弓であるかぎり、人間は必ずや悪をなし、罪を犯す。だからこそ、そ こに懺悔がなければならないのである。懺悔とは、みずからの罪を仏に告白し、許しを乞 うことである。仏教ではこれを「ざんげ」と読まずに「さんげ」と発音する。 いや、ひょっとすれば、懺悔を罪の告白と考えてはいけないのかもしれない。いま突然、 わたしはそのようなことを考えた。懺悔とは、まさに人間が人間であることを−すなわち 「狂える弓」であることを−自覚することではなかろうか。なぜなら、その自覚からあら ゆる宗教がはじまるのであり、仏教はまぎれもなく一つの宗教であるのだから・・・・・。
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