春秋戦国時代の中国の思想 

 ◆資料:「人」と「民」 (『漢文入門』藤堂明保)より)
 『論語』の中に、子路という孔子の弟子が、先生に喰ってかかった話が見える。子路は若い又弟子を、奉行に取り立てた。孔子先生、少々腹にすえかねて、「そんな経験もない男を、急に大役につかせてはまずかろう」とたしなめた。子路いわく、

 民人あり社稷あり、なんぞ必ずしも学びて然る後におさめんや!

 先生のように勉強が先だとばかりは、言っておられませんよ。民人も国家も現に存在するのですからね。 − 事は急ぐのです。

民(字形)
 「民人」という熟語がここに見える。今日では「人民」という。さてとはどう違うのだろう。まずからお話を進めよう。

 字形63はの原字である。上に目が書いてあり、下には針が描いてある。しかもこの目は黒目がない。つまり、針で目をつきさして、盲目にしたさまを表すのが、民の字である。
民とは「目が見えない」ものである。

 してみると、後世のの字がの原義をよく保存するといえよう。睡眠の睡とは、頭を垂れてコックリコックリと居ねむりをすること、とは目をふさいで、何も見えないことである。ねむった時の状態は、盲目の状態と同然であろう。民は上古に men と言ったが、このコトバは瞑目の(メイ) meng と同系である(狭い母音eの後にくる ng は、しばしば に変わる)。もまた目の見えないことである。

 昔、一部族が他の部族の者を捕虜とすると、それを奴隷にして酷使した。米つきや、物運びなど、きまった所で一定の仕事をさせるには、盲目にした方がよい。逃亡を防げるからである。

 そこで奴隷の一部は、目を針で刺されて盲目となる。これがである。後世になっても、山椒太夫の奴隷は盲目であった話があるし、賎民や乞食には盲人が多い。楽人すらも多くは盲人ではないか。残酷な話だが、遠い人間の歴史の中には、そんな時代もあったのだ。十七世紀まで、黒人の奴隷がアメリカでどんな扱いを受けていたか「アンクル・トム」の物語を思い出してごらんなさい。

 したがって『論語』の中ですら、というコトバは、なお暗い陰影を帯びて使われている。
「民は依らしむべし。知らしむべからず」とある。もちろんこの「べからず」(不可)とは、「そういうわけにはいかない」という意味で、「してはならない」(不当)という意味ではない。  しかし孔子は、「民というものは、こちらの方針に依らせることは可能だが、こちらの考えをよく呑みこませる、というわけにはいかない」と述べている。なぜだろうか? つまりはばかだからである。民とは暗愚である、知恵がない、道理に暗い ─ その「暗い」という感じの奥には、民は盲目であるという、太古からのコトバの意識がなお脈々と残っているわけだ。

(字形)
 では、とはどういう意味だろう。この字が人間の姿を描いた象形文字であることは、もうなん度も説明した。しかし  nien というコトバは、どんな意味であるかを、 よく考えてみねばならない。

 ニン  nien の最後の に変わると、 nier という語形になる。この語 nier → niei → ni と変化して随唐の時代にはとなった。つまり漢字で、二や爾と書かれるコトバである。とは、ふたつの物が、近くに並んでひっついた姿を示し、これが2という数詞に用いられる。爾とはいうまでもなく、「なんじ」という第二人称の代名詞に使われる。今の北京語でも、「あなた」というには ni3(你) という。

 さて、 人 ── 二 ── 爾 は同系のコトバだとすると、とは、自分の近くに肩を並べて住んでいるひとということであろう。それは他の部族や他郷の人を含まない。身辺の近くにいる neibourhood だけをさすコトバである。

 大昔の殷の時代の甲骨文字の記録や、周の時代の青銅器をみると、「用十六羌(キョウ)」といった記録によく出くわす。(キョウ)とは、西方にいた外民族である。用とは犠牲にして殺すことである。つまりお祭りのさいには、捕虜として奴隷として使っていた外民族を、さっさと「用いて」神にささげたわけだ。牛や豚を殺すのと、ちっとも変わらない。時には、百人、百五十人という数を血祭りにあげているのだから、恐ろしい。また「十人を賜う」といった記録もある。また、逃げた牛一匹の代償として、四人の奴隷を支払いに供した記録も見える。日本でもあちこちに部族が割拠して、たがいに闘争していた時代には、これと同じであったろう。

 さて、身辺の仲間だけ、つまり「君と僕」といった関係の者だけを人(ニン)と称していた世界において、はじめて広い意味のということを唱え出したのは、だれあろう、有名な孔子にほかならない。そして彼はその心がけをと名づけた。とは、まったく同じコトバであり、おまけに「人と二」を合せて仁という字ができている。漢代の鄭玄(ジョウゲン)という学者が、「仁とはあい人偶(ジングウ)すること」と説いたのが一番よい解説である。おたがいにとして認め合うのがだというのである。

 こうして、従来はきわめて狭い仲間だけを人といったのが、今や同村同里の人だけではなくて、他村他部族の人をも、またはるかに遠いところに住む人をも、おしなべて人というようになった。奴隷であろうが、貧者であろうが、いまやいちように「人」である資格を認められた。これはコトバだけの問題ではない。人という観念の転換である。だからアジアの精神史の中では、孔子が「人間性」というものの発見者としての栄誉を与えられるのである。

 とはいうものの、孔子の考えには、なお昔からのというコトバの陰影が残っている。だから孔子は、一足飛びに全世界的な人間愛だとか、人類愛だとかは言わなかった。まず家をおさめ、郷土をおさめ、国をおさめ、それから全中国の人々へというように一段一段と(ニン)として扱う範囲を広げているのである。孝とか悌(テイ)とかは、狭い家郷での心がけ、それを広く広げたのがの心だと説くわけだ。その考えにはあくまでも、かつては同族同郷のひとだけを人として待遇した、あの古い意識が後を引いている。キリストや釈迦などの、どこか抽象的な広汎な考えとは、かなり性質が違うわけである。

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